2006年2月12日 (日)

トリノとオランダ

(後日記・スピードスケートの話題)

いよいよ始まりましたね。寝不足との闘いが。
かの宮本武蔵も兵法の極意を記した「五輪の書」を仕上げるに当たって、
やはり眠気との大いなる戦いを繰り広げていたことでしょう。

私。書ならずも電波が受けられる発光パネルが鎮座する居間。
一丁前にBSもしっかり見られるので、目を離す暇がありません。

競技をしていたこともあって、早速スピードスケートの長距離に刮目。

…っとと、解説は白幡圭史さんじゃないですか。

(かつての戯言)←クリック
清水さん、けなすつもりで書いたわけではありません…
…「努力の天才」はこの後の人生が培って与えられた称号なのですから。

白幡さんが中学3年生の頃、私は1年生。
当時の全北海道中学校スピードスケート選手権大会の会場は
苫小牧ハイランドスポーツセンター屋外スケート場。
3日間の大会期間中に昭和天皇の崩御が伝えられ、
日本の歴史転換期を迎えたのもこの時のこと。

5000m予選は清水宏保(現500m代表)同走の組。
周回13周のレースでラストスパートを2周前に仕掛けて、
ぶっちぎってしまうという、常軌を逸した体力を見せつけ、
その後、そのまま全国チャンピオンになってしまった。

当時からこの人のすごさは、大腿部に乳酸がたまって
圧倒的に後半、足の回転が鈍ることを余儀なくされるこの競技で、
最後の最後に短距離選手並みの伸びを見せることのできる
驚異の末脚があること。

それだけではない。
噂の範疇だが、当時北海道の「内申ランクA※1」とされた
明晰な頭脳。レース展開の緻密な計算がその噂を裏付ける。
※1…北海道の内申ランクは主要5教科に実技4教科を加えた合計点で算出され
 AからMまで13段階の区分があり、受験の合否判定の半分を占める。
 Aランクは、ほぼ「オール5」に相当する。
 …というか、競技場ごとに異なるブレードのメンテナンスとかいろいろ考えることも多く、
 アホでは勝てない。一流選手に文武両道な人は多い…とおもふ。

なんというか、当時から別格のオーラが漂ってました。

最後のオリンピックとなったソルトレークでも、
最下位同然の序盤戦から、後半に向けてラップを上げていくという、
世界に類を見ない「ラップ技術」で見事4位入賞。
圧倒的な非力を補って余りある高度な体力温存技術で、
スポーツ新聞の一面を占拠する、自他共に認める会心のレースだった。

スケート選手は「ハリウッドスター並みの賞賛を受ける」という、
スケートマラソン発祥の地オランダ。
観客席の大部分をそのオレンジ色で埋め尽くしてしまう。

そんな目の肥えた大応援団からも、
白幡の「ペースが上がってくる」という驚異の展開に
ソルトレークの地でも周回を重ねるたびにどよめきが上がったという。

「体内時計”31秒”が白幡には備わっている」と評する人、数多。
玄人好みの彼がたたき出した日本記録は、
もう5年も破られていません。

男女とも長距離陣、入賞は今のところないですが、
実況の方が「これだとどうでしょうね」と聞けば
すぐさま残りラップを暗算して瞬時に的確な目標時間を提示する。
実況が一見数字だけで展開を読もうとすると、一呼吸置く間もなく
補足を唱え、裏付けとなる四方山・技術論も納得の解説を加える。
だからといって、展開が緊迫すれば無駄な話を挟んだりもしない。

長距離をこれだけ面白く見せられるのは白幡さん。
明晰な頭脳と、競技を邪魔しない的確な言葉を添える、
あなたの実績、そしてそのセンスがあってのコトですよ。

ううむ。オランダが唸る玄人好みな味が、
引退後の解説席。ここにも。

五輪真弓から阪神を引いたらオリンピック?→banner_02

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2006年2月 2日 (木)

3度目の氷上

今日は真駒内オープンスタジアム。
屋外スケートリンク。

今期3度目となった銀盤の上は、
雪化粧と底冷えする寒さでキツイお出迎え。
写真なしです。スミマセン。
子供ら6人と氷上対決。
こちらは負担重量約10kg。

ところが、対決どころか、肝心なところで
ちょっかい出してきたり。
くそがきぃ~!!!
もみくちゃ。

勝負は…引き分けとしておきましょう。
「今日はこれぐらいにしといてやるぅ!!!」
聴こえないように遠吠え。

結局今日この日に臨むに当たり、
大人気ないプライドが闘志を燃やしたというか、
2週間で6回ほどジムでトレーニングを重ねました。
おかげで明日の筋肉痛だけは逃れられそうです。
付録に正月太りもすっきり解消。
ずいぶん体も引き締まりました。
目標があるとハリができますね。
私もまんざら完全な「ダメ人間」じゃないのかも…とすぐ有頂天。

一人だけ女の子もいました。
将来はスケート選手になりたいとか。
宣言したあとの照れ笑いがなんともいえず。
人前で決意を口に出すなんて、恥ずかしいよね。
がんばれやぁ。

今日はトリノに日本選手団が続々到着。
選手団のリーダーを務める岡崎朋美さんの笑顔も印象的でした。
瞳の奥に確かに座っている、強い意志。

近い将来と遠い未来。
時の訪れの違いこそあれど、
オリンピック。真剣勝負の激突。
楽しみです。

=====

今期のスケートリンク通いはこれでおしまいです。

今週は雪像を完成させて雪との格闘が終わったら、
次なる氷上対決…

ワカサギ釣り

に、全霊を注ぐ覚悟。
身辺の事情で2年間封印していた極上の娯楽。
その場でテンプラ揚げ。絶味。
もうヨダレが。じゅる。

芯から冷える釣りからの帰る道すがら、
ふらりのれんをくぐる温泉の軒巡りもあれこれ。
肩まで浸す湯船を想像するだけで…うつつ。

4度目の、ステージを異にする氷上に
思いを馳せながら。

北の冬はまたたのし。

帰宅して鏡を見たらほっぺが笑っていた子供のそれとおんなじでつい…→banner_02

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2006年1月22日 (日)

小僧の眼差し

おとつい金曜日の話。

前日からの宿泊勤務で1時間の仮眠を取っただけだったのですが、
翌土曜から真駒内オープンスタジアム(屋外スケートリンク)が、
31日までお休みになってしまうようなので、
夕方の帰宅から30分だけ追加の仮眠…で、ちょっとムリして、
行ってきました。

先日の来場の時はちょっとおセンチになっていましたが、
この日、ガラガラな様子は変わらずながらも
少年団の小学生らしい4人が、
コーチらしい年輩の方に指導を受けていました。

彼らの姿。もちろん全身タイツ。
これだけではさすがに寒いので、その上に
ジャージかジャンパーの上着と帽子だけは身につけています。

「ほー。」と、ちょっと嬉しさも感じつつ、
すばやく靴を履き替え氷の上に。
軽くウオームアップしたのち、
現役の彼らのスピードについていけるか試したくなり、
外周から追っかけてみました。

さすがに脚力そのものでは負ける気がしないので、
ちょっとならそれなりについていけそうですが、
見た目以上にひと蹴りで消耗するエネルギーがすごいので、
そのスピードで半周(200m)もすると、
高度な心肺トレーニングをサボっているこの体では
たちまち酸欠でアタマが真っ白になってしまいます。


ぜえぜえ…。


客も少なく、それなりに滑っている私をちらちら。
程なくして彼らも私のことを気にし始めているようです。

結局、年輩のコーチらしきひとに
「あんた、やってた人かね?」と尋ねられ、
もう15年も前に競技してたこととか、ちょっとお話。

すっかり競技人口が減ってしまった現状やら、
近隣高校での廃部の話など、
あまり明るくない話題をぽつらぽつらと。

ついで、どうやら私の所属していた少年団は、
人が減って風前の灯火ながら、
同じジャージをわざわざ買ったりするような、
私の真似事が好きだった後輩が、
今は指導者をしていることなどを教えてくれました。
世間は結構つながっているものですね。

それでも、このクソ寒いところで走り回ってる
小僧どものハッチャキ振りは、そんな憂うような話には関係なく
昔も今も変わっていないようでした。

話しかけてみる。
「オリンピックの選手とか、なりたいのかー?」
「…わかんねー。」

真っ赤な全身タイツからひょっこり出ているまんまるい顔は、
寒風で、リンゴというより、プラムかスモモの熟し始めたような
まだらな赤が頬を腫らして、ひときわ膨れて見える。
もちろん鼻水つきだ。

小僧には高すぎる私の視線を見上げる目は
見ようによってはちょっとキラキラと輝いていたが、
寒さで潤んでいるだけかもしれなくて、
平日のこんな時間にリンクで滑っている
この変わり者のおっさんと言葉を交わすのが
嬉しいのか、つまんないのかは良くわからなかった。

リンクの上で小さな約束をした。
2月にきっとまたここで会うことになると。

訳あって、次回までに目標ができた。
10kgの荷物を担いで、彼らよりも速く滑ること。

18:00。営業時間が終わって帰り際、
暖の取れる待機室でベンチに座って休んでいると、
さっきの小僧がやってきた。

「あげるよ」
チョコレートのひとかけらだった。

「わるいな。お返しはできないけど。ありがとう。ごちそうさん。」

照れているのか、このおっさんが怖いのか。
声が小さくて聴こえていなかったのか。
振り返らずにそそくさと居なくなってしまった。

小僧。チョコレート。うまいぞ。




昨日。今日。
柄にもなく立て続けにジムでウエイトトレーニングなんかしてみたり。
…負けらんねえな。

という割には、リンクから帰宅後、寝ずに翌2時まで職場の酒飲みに参加。
仕事の話で白熱して、議論に明け暮れてしまう。
さらに翌土曜もジム後、呑み仲間のロックンローラーにお呼ばれして
積丹のライブハウスを運営している
ファンキーなオヤジさんなどを囲んで新年会。こっちは和気藹々。
酒。酒。酒。
年末年始で増えた脂肪は減る気配…無いようで。
ストイックな競技者のそれには程遠い生活。

さらに今日はジム後、映画館に直行。
まずロッテリアのハンバーガーセットで腹ごしらえして
ハリーポッターの吹き替え版を観ながら
コーラ飲みつつ、ポップコーンをボリボリ…。

懲りず。

でも、体を動かすと「肩コリ」と冷え性はとりあえず消えてくれる→banner_02

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2006年1月13日 (金)

真駒内屋外競技場

今日は休暇を取って行ってきました。
  (後日記・スピードスケート随想、長文です…)

あ。タイトルはこれから私がタイムトリップする競技者当時のもの。
…今は「真駒内オープンスタジアム」って言います。

竣工は1970年。オリンピックのために造成された公園内にあります。
1972年。この屋外リンクが札幌オリンピックの会場になった当時、
いまではあれだけ活躍目覚しいスピードスケート競技に
日本勢の入賞者はいませんでした。

シーズン国内最初の大会となる「真駒内選抜スピードスケート競技会」は
今もこの会場で「シーズンの行方を占う大会」として開催されています。

小学生の頃は憧れの黒岩さん(*1)が見たくて、
リンクサイドへ応援に行ったこともありました。
*1 現西武ライオンズ球団代表の黒岩彰氏。
  カルガリオリンピック500m銅メダル。日本スケート男子短距離界初のメダル獲得者。
  黒岩さんは少年スケーター憧れの存在でした。
  昨今はエース松坂の不祥事の責任を取って降格されたり、
  メジャー希望のまたまた松坂の引止め工作に奔走したりと、
  気の毒なほどご苦労が絶えないようです。

この競技会、10年位前まで毎年NHKでテレビ中継(*2)をやっていたのですが、
*2 テレビへの憧れも人並みな少年だった当時、
 「この席はカメラに写りますよ~」の甘言に誘われて
 何故か韓国の応援団席に座ってしまい、
 「イーギョラ・ハング! チャーランダ・ハング!」とハングルの応援方法を仕込まれ、
 渡された「太極印の太鼓」を叩きながらいつの間にか日本選手以外にも
 たくさんの選手を応援させられていました…。
 ・スポーツに国境はない。
 ・韓国の人は人をおだてたり乗せるのが上手だ。
 …かも知れない。
 いい思い出です。

いまや主力級選手がW杯などの日程の都合で出場しなくなり、
テレビ中継はなくなってしまいました。

私も中学までは一応競技者でして、かの清水宏保(*3)さんと同じ大会で競技したことも。
*3 いまや世界最速のスプリンターとして、
  世界記録を長きにわたって保持してきた清水選手ですが、
  中学3年当時の全北海道大会の出場種目は1000m・5000m
  (男子競技は500・1000・1500・3000・5000mの五種。2種エントリー可能)
  まだこの頃は背が小さいだけでなく体躯も非常に華奢で、
  今のような隆々とした肉体の面影はありませんでした。
  (彼が短距離に転向したのは帯広白樺高校に進学してからのことです。)
  全道大会の予選は7・8人が同時にスタートする「シングルトラック」競技。
  先頭は時速50km近くの風圧を一人で受けるがゆえに、
  後続の選手よりも遥かに消耗が激しいため、
  ラストスパートに向けた「駆け引き」も勝負の重要なキーポイントに。
  当時は公平性を保つための「責任先頭制」がなかったことから、
  紳士協定で1周ごとの先頭交替で競技していたのですが、
  当時の清水選手は体力温存を優先して先頭交代を拒否。
  …まあ、ズルです。
  同走の白幡圭史さんから大声で「汚ねえぞ清水!」と
  競技中にもかかわらず恫喝されて、小さくなっていました。
  見ているわれわれもあまりの卑怯さに閉口。
  (まあ、競技中のアレがなかったら、他の少年団も連合して
   あとで呼び出し喰らい「フクロ」にされていたことでしょう…
   ヤクザな奴一杯いましたから……え?私は違いますよ~。)

  今の堂々とした彼の雰囲気を見ると、おかしいかな
  いつもそのときの出来事を思い出してしまいます。





小学卒業を前に、バッジテストC級獲得を果たして
(当時C級:500m 50.00秒ほか、認定大会2種目で標準記録突破が条件
 今はわかりませんが、これで国体の出場権がありました)

中学での競技生活を決断するきっかけになった大会も、
天然氷ができるまでの期間、遠征練習をしたのも、
全国大会出場の夢が潰えることになった大会も、
競技生活を終えることになった最後の大会も、
思い出せばみんなこのリンクがゆかりだったことを思い出します。
夏には周囲の公園を駆け抜けて競技場にゴールするマラソン大会も開催してます。
中学時代は毎年参加してました。





今となっては競技人口も減ってしまい、
練習に来る少年団なども激減。
かつては一般開放終了後に競技者練習の専用に開放していたのですが、
それもなくなってしまい、
一般開放終了後の18:00にはすぐに閉鎖されてしまうそうだ。
リンク一杯に全身タイツがごろごろしていたことを思い出して、
ちょっぴり寂しくなった。

金曜日で平日だからということもあるが、
スケート教室の小さな子供たちの集団もいつの間にかいなくなり、
16:30には400mトラックのあの広大なリンクが
私ひとりの貸切になってしまった。
(クリックで拡大します…)

Makoma_1   

画面中央に見えるジャンプ台は「BIG AIR」開催のためのもの。
スノーボーダーの大掛かりなショーと、アーティストの競演場に様変わりする。
準備・撤収期間のために月末は一般滑走が1週間以上お休みになってしまう。





競技生活を閉じたのは15歳。
そうか。
これまでの人生の折り返し地点になるほど
昔のことになるのね…。

情熱を傾けたこの競技にいつか恩返しできるときが来るかもしれない。
…そんな思いもあって、
年に一回は氷の感触を味わおうと、
今年もMyシューズを持参して、ひもをきつくしばった。

有線放送だけが唯一の喧騒。
弱い風だけが滑っているには
あまりにも惜しく
デキのいい氷だ。

年に1回なんてケチなこと言ってる場合じゃないか。
一般入場料760円。
2月一杯は営業しているみたいだし。
また来ようかな。

少子化はニッポンの将来の栄光にまで暗い影を落としそうです…→banner_02

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